ファイファー(Max Adolf Pfeiffer)がマイセンを動かした時代。

 

Max Adolf Pfeiffer (1875-1957)は20世紀初頭のマイセンに入所し、セールスマネージメントだけでなく、伝統技術を損なわずに生産性、創造性の両面において向上をはかった優秀なリーダーでした。ベルリン生まれの磁器製造機のエンジニアでもあった彼は1908-12の間、Thuringen地方のUnterweillbachという町で自らの名を冠した株式会社の下に小さな磁器工場「Schwarzburger Werkstatten fur Porzellankunst(シュワルツバーガー磁器アートのためのワークショップ工場)」を収め、経営においても芸術分野においても功績を残しています。1913年に営業責任者としてマイセンに招かれました。1918年には事実上の最高責任者となり、1933年にナチスの台頭により職を解雇させられるまでマイセンでその手腕を振るいました。彼の経営部分の功績といえば工場設備の拡充と職人たちの教育も含めた組織体制の見直しでした。彼が目指したのは工場の一人一人が物をつくる喜びやこだわりを自覚しながら作品を生み出していくことでした。それがひいては工場の発展につながり、また芸術的創造の過程においても有益であると信じていました。特に造形技術における躍進がアーティストたちの創造領域を広め、そこから生まれた作品は万博などの展覧会での成功へとつながっていきます。

彼はアーティストではありませんでしたが、芸術を擁護し発展させたいという願いはアーティスト以上にあったのかも知れません。マイセンの経営は彼にとってフリーの芸術家に仕事を与える場であり、創造と研究を提供する場でもあったようです。またケンドラーをはじめマイセンの貴重な芸術遺産を後世に伝える役目も自覚していた彼は古典作品の模倣も多く手がけ、1916年に開館させた展示場(現・マイセン陶器博物館)は大戦の戦火からほとんどの過去の作品を守ったのでした。

ファイファーが希代のアーティストと共同制作できたのも、彼の人をひきつける人柄と芸術に対する深い愛情があったからに違いないようです。先に述べたように1933年にナチス政権下にマイセンを解雇された彼は大戦終了後まではStaatliche Porzellan-Manufaktur Berlin(ベルリン磁器製作所)で経営主任をつとめ、その後1947-1950年までRosenthal(1879年創業の老舗ドイツ磁器メーカー)で仕事をしました。

終わりに彼の時代とともに歩んだアーティストを簡単に紹介いたします。

Paul Scheurich(1883-1945)
Max Esser(1885-1945)
Paul Börner(1888−1970)
Richard Langner(1879−1950)
Gerhard Marcks(1889−1981)
Ernst Barlach(1870−1938)
Willi Munch-khe(1885−1961)

今回はこのあたりでおしまいにします。

文:園田(Article by M.Sonoda)




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